DELUSION

デザイン学生が、様々な作品や人物を取り上げ、「作り手目線」で語っています。(映画、音楽、デザイン、漫画、アニメ…etc)

秋元康 と セカンドクリエイター

お久しぶりです。

 

今回は秋元康さんについて。

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秋元康と言えば日本を代表とする作詞家、音楽プロデューサー、放送作家であり、AKB48グループなどのアイドルグループの総合プロデュースも務めています。

 

 

秋元さんは1977年から活動しており、約40年間様々なジャンルでヒットを生み出し続けているのは、常に時代の流れを読み続け、新しい波を起こし続けてきたからだと思います。

 

 

youtu.be

 

この動画でも、その業界での常識や共通認識を破壊したところにピンと来たと言っているように、「芸能活動を本気でやっていることはダサい」「部活感覚で番組に出る」といった新しい概念を生み出すことで、これまで文化や流行、思想を作ってきたんだと思います。

 

 

 

 

AKB48の出現

秋元さんとつんく♂さんを比較してみると、どちらも現役でアイドルプロデュースをしていますが圧倒的に秋元康プロデュースのアイドルが成功を収めています。

 

つんく♂さんはハロープロジェクトを設立し、モーニング娘でアイドルの一時のを築いていますが、現在は当時ほどの勢いはありません。

 

当時、アイドルはその名の通り「偶像」でしかなく、憧れるだけの存在でした。ジャニーズも同じで、追っかけがいるほど、神格化される存在だったと思います。

 

 

その概念を覆したのがAKB48の出現です。

 

「会いに行けるアイドル」という今までのアイドルと真っ向から対立するコンセプトのアイドルを生み出しました。おニャン子クラブの作詞家をしている時は総合プロデュースはしておらず、ただ歌詞を提供しているだけで他のスタッフと同列の扱いだったと言います。

 

それからオタク文化の発信地である秋葉原に劇場を作り、総合プロデュースする環境を作りAKB48を売り込みました。

 

AKB48の構造は凄まじく良く出来ていて、かなり戦略的に作られています。

 

 

 

 

 

セカンドクリエイター

セカンドクリエイターという言葉は芸人で絵本作家の西野亮廣さんが作り出しました。セカンドクリエイターは平たく言えば「協力者」のことで、西野さんは、自身がクラウドファンディングをしている時の支援者をセカンドクリエイターの一種と考えており、「何かを支援することで、自分も参加している」というマインドが働くという現代人の特性がセカンドクリエイターを生み出していると唱えています。

 

AKB48でいうところのセカンドクリエイターはファン。今まではアイドルたちの応援手段は限られていましたが、総選挙という画期的なイベントによってファンは「自分が投票すれば推しの順位が上がる」という直接的に推しに貢献できる方法を手に入れることでアイドルとファンの関係を強固なものにしました。

 

 

 

 

ロングテール

ロングテールという概念があります。

ferret-plus.com

 

ロングテール(the long tail)とは、主にネットにおける販売に置いての現象で、売れ筋のメイン商品の売上よりも、あまり売れないニッチな商品群の売上合計が上回る現象のことです。

 

 

今日、本屋がAmazonの出現によりどんどん潰れていっています。それは、本屋の売り場面積が有限で、Amazonのようなネット販売ではロングテールが起こるため本屋の需要がなくなってきているせいです。

 

 

AKB48は完全にこのロングテールを起こすのに絶好の構造を持っています。AKB48は、選抜メンバーだけでなく研究生まで加えると総勢100人を超えるメンバーが在籍しており、メンバーが数人のグループが本屋なら、AKB48Amazonというように、人気も知名度もそこまでない子でも、数人でもドンピシャのファンがいればロングテールが成り立ち、AKB48全体で見れば大きな貢献になっているというわけです。

 

 

 

 

 

ライバル

「会いに行けるアイドル」というコンセプトのため、地方にも劇場を作り、そこでもたくさんの48グループのメンバーを増やしました。ここでまたロングテールの尻尾を伸ばすわけですが、そこで出てきたの坂道シリーズ。

 

 

AKB48が結成されたのが2005年で、その6年後の2011年、公式ライバルとして乃木坂46が結成されました。AKB48とは違ったコンセプトのアイドルを掲げて売り出しましたが、当時はまだ手探りだったようです。時間をかけて秋元康企画・構成の番組でその活躍や軌跡を追って、乃木坂ブランドを確立して「オシャレ路線アイドル」を根強くしていきました。募集時にもモデルやタレント出身を集めていたそうです。

 

 

メンバーひとりひとりで見るともちろんそうではないですが、グループで見ると欅坂46も番組を持ち、今度は「ボーイッシュ路線アイドル」を確立していくところから見るとAKB48とは全く違った構造を持っています。どちらかというとAKB48はイメージとしてのグループではなく、個々をち強調してるセレクトショップタイプで、坂道シリーズはグループ自体にイメージとしてのコンセプトを持ったオリジナルブランドタイプ

 

 

AKB48は大人数、グループとしての個性はない複合タイプなので、めまぐるしい世代交代に対応しています。完全実力主義で、総選挙によってセンターを決めたりするため、常にファンの求める姿に対応したグループを維持することができるという株式会社に似ている構造があるので、時代に合わせやすく作られています。

 

 

坂道シリーズは完全にグループイメージを確立しているので、2期生を迎え入れたりという人数補正はあるものの、「乃木坂、欅坂の曲やpvが好き」というグループコンセプトにハマってる人は常に離さないようなブランディングを仕掛けています。番組を作ったのも、ほぼ毎回同じメンバーが出るため見たい人が選んで見ることができるという構造を持っているからだと思います。

 

 

 

ラストアイドル

昨年、秋元康企画で始まったラストアイドルの番組は、デビュー曲も振り付けも決まった上で暫定メンバーが毎週挑戦者と入れ替えバトルを行い、暫定メンバーが負ければ即挑戦者と入れ替えという上に、審査員4人のうち、天の声が一人指名して、その審査員の独断でジャッジされるというなんとも過酷な企画です。

 

 

これは過酷な上に審査方法が運に近いものもあるため、毎回審査についてネットが荒れていました。これによってファンは過酷な運命に振り回されたアイドルを自分たちで何とかしなくてはいけないと自分事化します。そして秋元康はこのネットが荒れ、ネットでファンが自分たちが何とかしなくてはならないと感じることを狙っていたのか、ラストアイドルファミリー(ラストアイドルと敗者組で結成されたセカンドユニット)は全員、公式のTwitterのアカウントを持っています。そして番組で誰かが負けたり、自分が敗退したりするとTwitterでその思いを綴り、さらにファンは感情を移入するようになります。

 

 

 

そして、showroomというアイドルやタレントの動画配信に対して投げ銭ができるサービスがあるんですが、そこでもファミリー内で関コレのランウェイを歩く権利をかけた対決も企画され、そこでもファンが必死に推しのメンバーにポイントが入るように動いていました。

 

 

つまり、秋元康は「会いに行けるアイドル」の次の次元として、「ネットで繋がれるアイドル」を生み出したんではないかと思います。

 

 

審査員や番組運営という仮想敵を想定させ、ファンがネットで団結し、アイドルにリプを送ったり、showroomで協力したりしてアイドルを育てるというフェーズに突入している気がしました。

 

 

 

 

 

 

いかがだったでしょうか。

秋元康さんは、常に時代を読み続け、新しいアイドルの概念を生み出すことで、その地位を不動のものものに天才プロデューサーなのだと思わされました。

 

 

 

 

 

秋元康セカンドクリエイター]

 

『ONE PIECE』 と ルフィの謎

 今回は 『ONE PIECE』について語りたいと思います。ただ、僕自身『ONE PIECE』は第一章と魚人島ちょろっとしか見たことがないので、内容についてあまり偉そうに語れないんでキャラクターについて語りたいと思ってます。

 

ONE PIECE

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僕的に『ONE PIECE』の面白いところの一つとして物語の緻密さはもちろんなんですけど、組織論的な観点も描かれているとこがあります。

 

ルフィと白ひげ

これは、本にもされているくらい有名な話ですが、ルフィ率いる「麦わら海賊団」と白ひげ率いる「白ひげ海賊団」の組織構造とそれぞれのリーダシップについてです。

 

「白ひげ海賊団」

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白ひげ(エドワードニューゲート)

 船員は約1600名で、16の部隊に分かれている。さらに、新世界で名を馳せる43の海賊団を傘下に従えており、傘下含めた兵力は5万人に及ぶ。「世界最強の男」たる白ひげを筆頭に、世界有数の実力ある海賊たちが集う。仲間を「家族」と想う白ひげの心意気は一味全体に浸透しており、鉄の団結力を誇る。なお、隊の番号と個々の実力は比例せず、隊長達は番号に関係なく同じ地位である。白ひげ海賊団メンバー - NAVER まとめ

「白ひげ海賊団」と「麦わら海賊団」には構造的に大きな違いがあります。それはピラミッド型フラット型かということ。

 

「白ひげ海賊団」は白ひげが絶対的頂点であり、その下に16人の部隊長、その下に各隊員、またその下に傘下の海賊団がいます。また、白ひげは海賊団を「家族」、船員を「息子」と呼んでいます。

「麦わら海賊団」はそれに対し、船長はルフィですが上下関係はなく、ルフィに権力自体はなく、権力ではなく意思によって周りを動かしています。また、ルフィは船員を「仲間」と呼んでいます。

 

 

実はこれ落合陽一さんが提唱しているリーダー像と完全に当てはまっているんです。

落合さんは、旧来のリーダー像をリーダー1.0、新時代のリーダー像をリーダー2.0と名付けています。

・リーダー1.0は完全無欠タイプで、すべての決定権を持って下を支配する。そして自分の後継者を育てる傾向にあり、体制を維持しようとする。ソフトバンクの孫さんや、スティーブジョブズがこのタイプだそうです。

・リーダー2.0は一つに秀でた能力を持ち、周りに自分の欠点を補える人を集める。支配ではなくカリスマ性で周りを引きつけ、後継ではなく後発を育てる傾向にある。チームラボの猪子さんや、デザイン界だとnendoの佐藤オオキさんはこのタイプだと思います。

 

 

つまり、白ひげは完全なリーダー1.0であり、ルフィは完全なリーダー2.0であると言えます。

ルフィは常に仲間を引き入れる時は一味にない要素を取り入れていき、航海士、狙撃手、コック、医者、、、といったように自分のないものを集めている様子が伺えます。また、泳げないルフィを泳げるメンバーがサポートしたり、ルフィが戦闘不能になった時やバラバラになって行動する時はそれぞれがリーダーシップを発揮することもあります。ルフィは常に専門の分野を持った者の能力を信頼して支配しようとはしていません。尾田さんが『ONE PIECE』を描き始めたのが20年以上前ですから、そんなに前からこのリーダー像を形にしていたと考えると恐ろしいです。

 

 

そして僕がずっと気になっていたのは、ルフィが何を考えているのかほぼ掴めないところです。思い出していただきたいんですけど、ルフィには直接的な心理描写が全くないんです。

 

 

ONE PIECE』と『NARUTO

ONE PIECE』を読んだことがある人は、『NARUTO』も読んだことがあると思います。どちらもジャンプで長年先端を走り続けた人気バトル漫画ですが、この二作品には

 大きな違いがあります。それは、『ONE PIECE』の指す「冒険」が文字通り物理的な冒険を意味するのに対し、『NARUTO』の指す「冒険」が成長を意味するというところです。

 

ONE PIECE』は、章ごとに新しい土地で、現地の世界観や、そこに住む人々に触れ、事件を解決していきます。そしてルフィ達が出会った人たちを救い、時には変えていくという展開をしていきます。

NARUTO』は、『ONE PIECE』と大きく違う点として、帰る場所が存在するということがあります。そしてメンバーも、新しく出会うキャラは一部で、基本的に敵キャラ以外、慣れ親しんだ人たちが登場します。そして、常に周りを変えていくというよりは、主要メンバー達が、修行や仲間の死などを通して成長していきます。

 

つまり、 『ONE PIECE』では、主要メンバーの直接的な成長はほぼ描かれておらず、突然新技が使えたりします。そして、変化するのは「新しく出会う人物や世界」という外向きな展開が見られます。

それに対して『NARUTO』は、ナルト含め木の葉の忍達の修行による成長や、出会いや別れなどのきっかけによる心理的な成長といった内向きな展開が見られるという違いがあります。

 

ルフィとナルト

ルフィとナルトは、どちらも明るく周りを巻き込んでいく典型的なジャンプの主人公的なキャラですが、大きな違いがあります。心理描写です。

ナルトは、自分が過去に孤独だったことや、恩師の死などを通してふさぎこむ場面が多く描かれています。『NARUTO』に出てくる登場人物全般に言えることですが、ナルトに共感や同情することができるため、感情移入してキャラクターを好きになることができるくらい、心理描写が繊細です。

ルフィはそれに引き替え、直接的な心理描写はほぼありません。確かに、エースを目の前で失った時やロビンを仲間に引き入れる時など、多くの場面でルフィは感情をむき出しにしていますが、ルフィ自体が何を考え、抱え込んでいるかといったナルトのような描写はありません。

 

ルフィの顔にも特徴があります。

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ONE PIECE』では色んなキャラクターが登場しますが、ルフィと同じ目の描かれ方をしているキャラクターはいません。ゾロやサンジやエースは同じように切れ長の目をしていますが、ルフィは丸く大きな目に小さい黒目が特徴的です。これは、はたから見て何を考えているかわからない印象与えていると僕は思っています。実際に同じような目を持ったキャラクターに、『銀魂』のエリザベスがいます。

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エリザベスも感情を読み取れないキャラクターです。ルフィは普段、何を考えているか悟られない、もしくは何も考えていないような印象を与えるように作画されている可能性があります。

 

 

直接的な心理描写がないことや、こういった感情が読み取れない表情をしている理由は、ルフィが他者の視点で見るべき人間だからだと思います。

 

 

 

ルフィの存在

ナミ、チョッパー、ロビンを仲間に引き入れた時や、アラバスタ編でビビ達を救った時を思い出していただきたいんですけど、ナミ、チョッパー、ロビン、ビビそれぞれの過去や感情が描かれて、読者は彼らの立場や感情を理解しました。そしてそれに対してのルフィの言動に彼らの考えや心情が動かされていくのを見て感動させられます。つまり、常に感情移入しているのは「彼ら」側だけで、ルフィ自体は言葉を発するまで何を考えているか理解できないようになっているのです。

 

ONE PIECE』と『NARUTO』編でも解説したように、『ONE PIECE』では常に話の軸はルフィであり、ルフィを中心に周りが変化していきます。つまり、ルフィは常に「最強であり、変化させる側」という絶対的立場という前提で話が進んでいきます。基本的にルフィが負けることはなく、どんなに相手が強くても新技で倒し、人々を変えていきます。

NARUTO』では、ナルトの周りには常にナルトよりも強い人たちがいて、ナルトは何度も負けたり助けてもらいながら成長を繰り返して強くなっていきます。そういう意味では『NARUTO』は『ハリーポッター』と同じ構造を持っています。

 

そのため、『NARUTO』ではナルトが出てこない話は多々あり、「ナルトたち」の成長を描いているのに対し、『ONE PIECE』ではほとんどルフィがいない話はありません。それは、「ルフィと○○」という構造を常に維持しながら話が進んでいくからです。頂上戦争ではついに一味すら出てきませんが、ルフィはまた別のパーティを組んで話を展開させます。

 

つまり、ルフィの存在を、「変化させられる側」に感情移入しながら、ルフィをはたから見てきた訳です。ルフィの存在を大きく見せていたのは、尾田さんが常に「ルフィの仲間」目線でルフィの存在を読者に見せていたからです。もし、『ONE PIECE』がルフィの心情が丸見えで描かれていたら、ルフィの一言や行動にそこまで感動していなかったと思います。あえてルフィに内的な感情描写を作らず、外的な描写からルフィを読み取らせた。そして、「ルフィの仲間」目線でルフィを見てきた僕たちは、普段何も考えてなさそうなヤツからの仲間思いな熱い一言に心を持って行かれていたんだと思います。

 

 

 

 

長々と語ってしまいましたが、『ONE PIECE』は、そういった細かいキャラクター描写に常に共感させられて、自分も旅をしているかのような感覚にさせられるとても巧妙な漫画だと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

『シェイプ・オブ・ウォーター』 と マイノリティ

前回に引き続き今回も映画について語ります。

今回は2018年のアカデミー賞作品賞、監督賞、作曲賞、美術賞ほか多くの賞をとったシェイプ・オブ・ウォーターについて。

 

シェイプ・オブ・ウォーター

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観ていない人のためにも軽くあらすじを説明すると、

時代設定は1962年の冷戦下のアメリカ。主人公のイライザは発話障害を持つ女性で、映画館の上にあるアパートで一人暮らしをしており、機密機関の「航空宇宙研究センター」で清掃員として勤務している。ある日、研究センターに一体の半魚人が研究のために運び込まれる。そして存在に気づいたイライザは密かに半魚人に想いを寄せることになるといった物語。今後の説明で細かい物語の説明も挟んで行きますけど、先に物語全体を知っている方がわかりやすいと思うのでよかったらこっちからwikipediaで予習しておいてください。

シェイプ・オブ・ウォーター - Wikipedia

 

シェイプ・オブ・ウォーター』は最初は全く知らなかったんですけど、アカデミー賞を作品受賞したその日に気になって見に行きました。僕はそんなにたくさん映画を観ているわけでもないんですが、今まで見た映画の中で一番感動しました。

面白い、興奮した、かっこいい、すごいと思った、など映画に対しての印象はといろいろジャンル分けできると思うんですけど、最も感動したのは完全にこれです。またその理由は後ほど。

 

まずはまた山田玲司さんの解説から観ていくんですけど、

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これで山田さんが取り上げていたのがギレルモ監督について。

マイノリティを描いた作品

まず、この作品のテーマとして発話障害の女性と半魚人のマイノリティ同士の恋愛が描かれています。さらにほかの登場人物として、イライザのアパートの隣人であるジャイルズはゲイ、イライザの職場の友人のゼルダは黒人女性です。

ギレルモ監督はメキシコ生まれであり、現在のアメリカファーストのトランプ政権への批判を作中で表現しているのではないかとのことでした。

ギレルモ監督もマイノリティの気持ちを代弁しているのではないかと裏付けるもう一つの理由がギレルモ監督が日本アニメーション、特撮の熱狂的なオタクだということ。

ウルトラマン円谷英二ジブリ宮崎駿や、手塚治虫までかなり日本のクリエイターから影響を受けているとのことでした。

オタクというのは怪獣や虫や鉄道など、一般的に光の当たらないものに光を見出す人のこと。ギレルモもそのうちの一人であり、作品の中で半魚人を超男前に描いている。

実際のその半魚人がこれ。

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 今まで見たことある半魚人よりディテールまで凝っていて、しかも美しい容姿を持っているのがわかります。

また、これは作品のオープニングなんですけど、水中にカメラが入っていくと、そこにはリビングがあって、そこにイライザと思わしき女性が眠っているというシーンがありました。

誰も知らないところに、美しい世界がある。それがオタクの世界であり、ギレルモがオタクの世界を美しく表現している。

 と山田さん。つまり、これはオタクほかマイノリティの存在に光を当てた作品だったのです。それを『電車男』『海月姫』のように、直接的にオタクの現実から光を見出している物語と違って、"マイノリティな人間(オタク)と人間界においてマイノリティである半魚人(オタクが愛しているもの)の恋"という夢に溢れた超ロマン主義的な作品であるところがまたオシャレであり、愛のある映画だなという感想でした。

 

唯一の悪役・ストリックランドの正体

ストーリーの流れとしては、研究センターに運び込まれた半魚人が、軍人であるストリックランドによって解剖されようとされようとするところをイライザが友人の助けを借りて連れ出そうと奮闘し、最後はイライザと半魚人は海で幸せに暮らすという流れなんですが、そこでことごとくイライザ達たちを追いつめるストリックランドが、主要人物の中で唯一の悪役なんですが、それが絵に描いたような強烈に悪いようなやつなんです。

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最初に研究センターに運び込まれた半魚人を邪険に扱い、いきなり薬指を切られるというショッキングなシーンがあります。ストリックランドはとりあえずその指を応急処置として一旦くっつけます(全然くっついてないです)。そしてイライザ、ゼルダに対しても女性蔑視な態度を取り続けるという、マイノリティに対して差別主義な男。こいつがこの作品の主要キャラクターで唯一のマジョリティの化身です。時代設定からして、権力を持った白人の軍人であり、美しい妻と子どもにも恵まれているというキャラクターは世間一般的に言う成功者です。そして他にもマジョリティ側がちらほら出てきます。ゲイのジャイルズがゲイであることに気付き、態度を変える店員や、ゼルダを家庭内で邪険に扱うゼルダの夫。ストリックランドを除く主要キャラクターの周りにはそういった人達で溢れていました。つまり、世の中のマジョリティはマイノリティに対して排他的考えを持っているということを訴えている。

ラストシーンで、半魚人がイライザを連れて海の中に飛び込んだのは、「マジョリティが支配する世間(地上)で生きるのをやめたマイノリティが、自分たちだけの居場所(水中)で幸せに暮らしていくことにした。」ということ。「マイノリティはたとえ評価されなくても輝ける場所がある」という表現があのラストシーンであったと思います。

 

そしてストリックランドの指の存在が彼の心情をすごく描写していました。半魚人によって切断された指は応急処置で繋がれたのですが、時には血を吹き出し、どんどん黒ずんでいきます。ストリックランドは指を切られてから半魚人に強烈な恨みを持ち始め、執拗に暴行を加えたり、殺害するタイミングをずっと伺っていました。そしてイライザたちが瀕死状態の半魚人を研究センターから連れ出し、家で匿っていることがバレるシーン。ここで真っ黒になった指のままゼルダの家に上がり込み、半魚人の居場所を問い詰める場面でついに無理やりくっつけていた自分の指を引きちぎって捨てるという狂気に満ちたシーンがありました。ストリックランドの指は半魚人への殺意や遺恨の象徴だったと思います。

 

独特な表現

シェイプ・オブ・ウォーター』のすごいところの一つとしてかなり表現が独特だというところ。ギレルモ作品をこれしかまだ見たことがないのでもしかしたら監督自体がこういう作風なのかもしれないけど、異様な違和感を感じながら見ていました。

その理由が、現代への風刺が効いているのに、時代設定が古く、純文学を見させられている感覚なので、気持ち的に入り込めそうでなぜか入り込めないみたいな不思議な感覚でした。出てくるセットはもちろん、テレビや人々の雰囲気も古い。また、途中でイライザが半魚人と踊っているもうそうをしているシーンがあるんですけど、それがまた白黒映像で、その感じもまた古い。終始夢の中を見させられているような不思議な感覚でした。オープニングとエンディングで男性の声でナレーションが入るんですけど、それこそ昔話を聞かされているような。

にもかかわらず、過激な描写があちらこちらにあるのがまた突き放される理由の一つ。ストリックランドの修正なしのベッドシーン、イライザが手話でFUCKとストリックランドに伝えるシーン、半魚人がジャイルズの猫に威嚇され、興奮して猫を食べてしまうシーンなど、性描写やバイオレンス的な表現が露骨に描かれていました。かと思えば最後のポスターにもなっている最後に水中でイライザと半魚人が抱き合うシーンは息をのむほど美しいものでした。

この違いはなんだと考えてみると、イライザが物思いにふけってたり、半魚人と過ごしている時間の時だけお洒落な演出がなされていました。イライザが恋人のいない孤独な毎日を送っているという描写があり、妄想してしているシーンもある。しかもなぜか彼女は映画館の上にあるアパートで暮らしている。この設定が完全にイライザが夢見がちな女性であることを象徴してる気がしました。そしてさっきも言っていた通り、このイライザはオタク達の生き写し。オタク達の夢をギレルモ監督が表現したんじゃないかと思いました。

そして心をを打たれた理由が、この作品でマイノリティが生きていく上で感じている息苦しさを、60年代という現代よりもはるかに差別が強い時代で描くこと表現し、その中でも美しさや夢があるということを表現したんじゃないかなと思いました。直接的でなく、ここまで文学チックに社会批判を表現した作品はなかなかないと思います。まだ見てない人はぜひ見て欲しいです。

 

と、ここまで長々と書いてきましたが、さすがに長すぎたので次からは一作品につき何部かに分けて書いていきたいなと思ってます。

 

 

 

『君の名は。』 の ロングヒット

色んな作品についてダラダラ語る場が欲しいなと思って始めました。暇なときにでも見に来てくれたら嬉しいです。※全て個人的見解です。

 

第一回は『君の名は。』について。

君の名は。』は2016年に上映、大ヒットし、51週にわたり映画館で上映、国内では興収250.3億円、『千と千尋の神隠し』『タイタニック』『アナと雪の女王』に次いで4位。(日本映画では2位)海外では千と千尋の神隠し』の2.75億円を抜いて3.55億円で日本映画1位となったアニメ映画。*1

 

この『君の名は。』はめちゃくちゃ売れた映画にも関わらず、結構周りに「ツッコミどころが多すぎる」「そこまで売れる意味がわからない」みたいな人が多かったので、自分なりになぜあんなにヒットしたのかについて語らせていただくと、君の名は。』はヒットするためにかなり精巧に作り込まれていると思います。

 

まずはこの物語の内容から見てみると、過去にもよくあった男女が入れ替わる物語。

ただ、今回は男女が知り合いじゃないんですよね。遠く離れたところに住んでいる都会の男子と田舎の女子。それをつないでいるのがスマホ。実際に劇中にはスマホ画面が映るシーンがかなりあって、ターゲットを若者に絞って共感を得やすいようにしていました。現代版男女入れ替わりストーリーって感じなんですけど、それよりもキャラクター像と時代の掴みがめちゃくちゃよくできてんなあ…って思ったところがありました。下に載せてる動画で山田玲司さんというめちゃくちゃ面白い人が語ってたことなんですけど、

 

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まず、山田さんがキャラ設定について語っているのが、瀧くんと三葉が絵に描いたような都会男子と田舎娘だということ。

「田舎に住む人が想像する東京にぴったりとチューニングを合わせてる」

「見たい人の想像に合わせているから作家主義の人間でもルサンチマンを入れないようにしている」

田舎に住む人が想像する都会男子像、都会に住む人が想像する田舎娘像をそれぞれ体現しているのが瀧くんと三葉であり、実際の都会男子や田舎娘をかなり大げさにチューニングして描いている。

 

また、瀧くんと三葉に感情移入しやすい仕掛けも解説されてました。

「女子はリア充で、イケメンで、大卒で、スーツ着て、就活してたらオッケー」

「奥寺先輩に相手にされないような中身が未熟なやつだけど、運命の人としてアリなラインは超えている。」

これはめっちゃ笑ったんですけど、女子的にアリのスペックラインを超えていて、男子も共感できるちょいダメラインもクリアしてる絶妙なエリアに瀧くんのキャラを配置しているとのこと。確かに。男子はだいたい三葉のこと好きなのでクリアです。

 

また、日本で公開された映画の流れもうまく汲んでいると。

「少しも寒くないわじゃない!」

君の名は。』より先に日本で公開された映画である『アナ雪』『MADMAX』が自然主義であり、特に王子が実は黒幕で、結局トナカイ使いとくっついて、「少しも寒くないわ」と言っている『アナ雪』は完全に「男には期待しない、女同士で仲良くしよう」という教訓が感じられる映画で、それを観て現実を見始めた女子からすれば、『君の名は。』を観て、かつて失ってしまった希望にすがってしまうのもわかる。

 

つまり、君の名は。』完全にロマン主義チューニングでガッチガチに固めた作品だということ。よくよく思い返してみれば絵に描いたような都会男子と田舎娘の体が入れ替わってしまうという設定自体ロマン主義感満載だし、さらに思い返せば、都会の描写の時は空や街を新海誠パワーでキラッキラに描いていたのに、田舎の糸守町でキラキラに描かれていたシーンはなかったですよね。あったとしても彗星が落ちてくるシーンくらい。ここで完全に都会と田舎のコントラストを強烈にして実在しない都会男子・瀧くんへの希望をがっつり三葉目線で描いているのと同時に三葉に感情移入してる女子全体の心も持ってたんだと思います。

 

というわけでそもそもツッコミどころを見つけてしまったり、乙女心を理解できない人はそもそもこのロマン主義チューニングから外されていたわけでそんなこと新海誠は気にしてなかったんですね。

 

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このポスターに惹きつけられたロマン主義を求めている人たちは自然と惹きつけられていたと。

 

 

そしてここからはなぜロングヒットしたのか。

ここまでキャラクターや設定を丁寧に作れたのは山田さんの話からすると川村元気さんのチューニングが効いていたからとのこと。この川村さんは凄腕映画プロデューサーで、wikipedia見てもらったらわかると思うんですけど、すごい数の話題作を手掛けてる人です。そしてこの川村さん、実は後に公開された『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』も手掛けているんです。監督に新房昭之(有名なアニメ監督)、脚本に『モテキ』監督の大根仁、声優陣に菅田将暉広瀬すずと申し分ないメンツの上、主題歌をDAOKOと米津玄師が手掛けるという豪華メンバーで固めたにも関わらず、興収は15.9億と『君の名は。』とかなり差が開いてしまった理由は、内容は置いて、制作自体に違いがあったと思います。

 

・音楽の使い方

君の名は。』の音楽は全部RADWIMPSが手掛けています。そして、映画と曲を同時並行して作り、シーンと曲がマッチするように作っていたとのこと。この結果どうなったかというと、PVかのように絶妙なほどシーンにぴったりな音楽が流れてました。実際に見た人は曲聞いたらそのシーンを思い出せるんじゃないかと思います。実はこれ、ミュージカル映画でも同じことが言えるんです。

 

ラ・ラ・ランド』『グレイテストショーマン』が世界中で大ヒットして、『グレイテストショーマン』は昨年末から公開されているにも関わらず未だに映画館で上映されています。単純にいい映画でいい音楽だったからというよりは、いい映画にうまくいい音楽がリンクされていたのが大ヒットの要因だと思います。

 

昔見たテレビで、記憶障害の人に昔聞いていた音楽を聴かせると、当時の思い出を話せるようになったというものを見ました。たぶんこれだった気がします。

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音楽は記憶と密接で、昔聞いてた曲を聴くと当時のことを鮮明に思い出す経験を僕もしたことがあります。特に、エモい感覚を思い出すことがほとんだと思います。

 

YouTubeでいつでも音楽を検索でき、音楽がストリーミングされる現代で、一度聞いただけの曲を繰り返し聴くことは昔に比べ容易になりました。その中でミュージカル映画は、映画を見る→家に帰ってサントラを聴く→その時のシーンを思い出す→映画をまた見たくなるのループが自然とできるので、リピーターを生みやすいのだと思います。

通常、映画を見る人は物語が気になって見に行くので、基本的にリピートしません。衝撃的なシーンや感動的なシーンがあってもそのためにわざわざリピートすることがないのは、後々鮮明に思い出す瞬間や、そのきっかけがないから。

まるでミュージカルのようにしっかりと映画に質の高い音楽をねじ込んだ『君の名は。』は、さらにRADWIMPSという誰もが(特にロマン主義チューニングのターゲット)聞いたことがあるであろうアーティストを使うことで、普通に音楽としてプレイリスト組み込ませること容易にしたことで、『君の名は。』を世間から忘れさせないようにしたんじゃないかと。

 

・映像美

音楽に加えて映像もリピートさせるのに必要な材料だったと思います。後に新海誠展が開催されたように、あの画面だけにも十分な価値があるので、絶妙なタイミングであの綺麗な映像と質の高い音楽入ってくるので、知らないうちに視覚と聴覚でがっつり記憶に叩き込まれたのではないかと思います。

 

・小説化のタイミング

そして、小説化もされているんですが、そのタイミングが公開前なんです。普通、映画は試写会以外で公開前に内容が公開されることはありません。あったとしても小説や漫画の実写化などですが、それと同じことを映画のPRが始まっている公開2ヶ月前という直前に発刊することで、一部のファンからすれば、「この内容をあの映像美とRADWIMPSで作るのか」という期待度を一層高める仕掛けを作ってるわけなんですね。そのおかげで公開1週目からスタートダッシュを決めることができ、公開9週連続1位。話題が話題を呼び、さらには『君の名は。』中毒になった人がリピートするというサイクルを生んだんだと思います。

そして前作は全国23館のみの上映だったのに対し、今回は新海作品としては初めて製作委員会方式を取っており、全国300館の上映にしたとのことで、完全に狙いに行った作品だったみたいです。

 

という感じで、『君の名は。』とんでもなく作り込まれてるかもしれないという話でした。あくまで個人的見解なので、、、